2012年04月18日

<ぶんっ!! > ジャズ・フルート奏者 太田朱美さん

太田明美2065.jpg

鳥取県米子市出身。
父親の影響で、幼少時よりピアノを演奏するなど音楽に触れる機会を多く持つ。
中学で吹奏楽部に入部、フルートを始める。
広島大学ジャズ研究会に所属、本格的にジャズに傾倒、広島市内のライブハウスで演奏活動を展開。
来広のジャズメン、池田芳夫、小山彰太、吉田次郎、安カ川大樹、川嶋哲郎、仙波清彦、納谷嘉彦、ロビーラカトシュら各氏と接触、センスと力強さを買われ、卒業後、東京での演奏活動を決心する。
現在、都内を中心に多くのミュージシャンのグループに参加、演奏活動を続けている。
2008年、自身のバンド<Risk Factor>(太田朱美fl/石田衛p/織原良次b/橋本学ds)の1stアルバムを発売。
2009年、<こめ>(水谷浩章b/片倉真由子p/太田朱美fl)を結成。
(プロフィールより)


金管楽器とばかり思っていたフルートは、じつは木管楽器だった。
そんなことも知らないのかと、あまりの音楽的教養の無さを人に笑われた。
知らないものは知らないのだからしかたがない。
第一、音楽的物知りになろうなどというつもりは毛頭ない。
ジャズの演奏を聴き、その楽しさに心躍らせ、美しさにひたりたいとねがっているだけなのだ。

だれもが認めるこの世界のトップランナー。
このところの活躍ぶりには目を見張らされる。
表現力やテクニックはいうまでもないが、なによりもすごいのは、フルートという楽器のイメージを変えてしまったことにある。

楽器の使用方法を変えた人はいくらでもいる。

山下洋輔さんは、ピアノを耐火テストの実験材料にしてしまった。
チャールズ・ミンガスは、ベースを壁に投げつけ解体し、弦がぶら下がったネックを武器に、気に食わぬ客を追い回した。
50年代、ニューヨークのジャズクラブでは、いつまでも演奏をやめないミュージシャンを舞台から引きずりおろすため、“シンバル投げ”が行われた。

太田さんはそんな乱暴はしない。
彼女は、フルートの使い方を変えたわけではなく、フルートという楽器のイメージを変えてしまった。

昨年、大塚のライブハウスで<Risk Factor>の演奏を初めて聴いた。

Risk Factor.jpg
●Risk Factor(左から、石田衛、織原良次、橋本学、太田朱美、土井徳浩)

フルートというと、「繊細」「優雅」みたいなイメージをすぐ思い浮かべる。
しかし、ここには、上品で取り澄ましたところなどまるでない。
あるのは、すさまじい圧力でぐいぐい迫ってくる音の壁だ。
人の感覚器官を無理やりこじ開け入りこんでくるような強い音の衝撃波だった。
サロンアート風な優雅さとは違う、アクション・ペインティングのダイナミズム(みたいなもの)にあふれている。
つまらぬ小理屈や、さまつなテクニック論など超越した<ジャズの生命力>がみなぎっていた。

すごい。
すごいなあ。
ただただ感嘆した。

・・・気持ちよかった。かっこよかった。眠くなった。耳が痛くなった。うきうきした。踊りたくなった。さみしくなった。気持ち悪くなった。帰りたくなった。素敵だった。可愛かった。力強かった。泣きたくなった・・・。
なんでもありです。感じることが生きている喜びに通じますように。


太田さんは、いつもそう願いながら演奏している。

ジャズの即興性と限りなく広がる世界に魅せられ、挑戦する。
・・・幼児がシャボン玉のうたを歌うように笛を吹いていたい

そんな自然な気持ちの有り様も大切にしている。

ヨーロッパの古い民話に「ハメルーンの笛吹き」というのがある。
笛の音で、町中のネズミを川でおぼれさせ、約束をまもらなかった大人どもを懲らしめるため、町中の子供を山の洞窟にかくしてしまった。

太田さんのフルートは、人をどこへ連れてってくれるのだろうか。
ここはひとつ、ライブで見届けるしかあるまい。

大丈夫です。
フルートを振りかざし追い回されることは、多分、ないでしょう。
でも、彼女のフルートは<銀の矢>となってあなたの胸に突き刺さること間違いなし。
プロテクター必携でお出かけになることをおすすめする。

学生時代の研究課題は蘚苔類。
蘚苔とは苔のこと、と辞書にある。
普通には花の咲かない低い植物の俗称、ともある。
太田さんの力技なら、苔に花を咲かせることもできそうだ。

こんな人はいない。
そう思わせてくれる<笛吹き>です。

言い忘れた。
彼女のMCの面白さも☆☆☆☆☆。

太田朱美「皆既日食」(テーマのみ)


★太田朱美ホームページ

《リーダー・ライブ》
・5月9日(水)川崎 JAZZぴあにしも
fl 太田朱美 p佐藤浩一  20:00〜

・5月31日(木)関内 JAZZ IS
fl 太田朱美 p田中信正  20:00〜
♪その他ライブ情報は太田朱美さんのホームページでチェックできます!
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2012年04月04日

バット・ビューティフル

バット・ビューティフル [単行本] / ジェフ ダイヤー (著); Geoff Dyer (原著); 村上 春樹 (翻訳); 新潮社 (刊)
『バット・ビューティフル』(ジェフ・ダイヤー 著・村上春樹 訳/新潮社)

---ここはまるで降霊会のようだよ、バド---  バド・パウエル

バド・パウエルは、自分の頭をめがけて振り下ろされてくる警棒を見る。
何秒かあと、自分の頭を殴打し、頭蓋骨を割り、脳を砕くかもしれない警棒を見る。
警官のガンベルトにしがみつき、なんとか立ち上がろうとするバドに、声が届く。
「ニガーが」

ヘロインとアルコールの魔力がバドをとらえてはなさない。

<人生の痛みを、いくつかの曲の弾むようオプティミズムによって、いかに解消していたか>

を、みんな知っている。
でも、音楽によって与え返された対価は、十分には程遠い。


---もしモンクが橋を造っていたら---  セロニアス・モンク

モンクは、助手席で石のように固まっているバドを見る。
雨の中、車に近づいてくる警官の姿を見る。
バドの手から奪い取って捨てたヘロインの包みが、窓の外の水溜りに浮いている。
少しだけ中身を舐めたあと、警官は聞く。
「おまえのか、そいつのか」
モンクは答えない。
キャバレー・カードを取り上げられ、捨てられる。
「しばらく必要ないだろう」
バドをかばい、モンクは90日間服役する。

<ジャズのいいところっていえば、自分だけのサウンドを持てば、ほかの芸術分野であればとてもやっていけなかったような連中が、なんとかやっていけるというところだ。--他人とはちがう物語やら考えやらをアタマに詰め込んだ連中が、そういうなにやかやをジャズというかたちで表現することができたんだ。--銀行員にも配管工にもなれないようなキャッツ(連中)がジャズの世界では天才と呼ばれる>

モンクはニューヨークの秋の夕暮れを見る。
<都市が自らを修繕している>感じが好きだ。
「ラウンド・ミッドナイト」は悲しい曲だ。
そして、モンクはもうなにもしたくないと思う。


---彼のベースは、背中に押し付けられた銃剣のように、人を前に駆り立てた---  
チャールズ・ミンガス


ミンガスは怒っている。
暴れる用意がいつもできている。

ステージの前で話に夢中になっている女のテーブルを蹴倒す。
弾いていたベースを壁に叩きつける。
4本の弦だけで楽器につながったネックを手に男をにらむ。
ステージの上で、消火用の斧をもって同僚の椅子を真っ二つに叩き割る。

<すべてにおいて過剰なのだ。--かれは音楽の中ですべてを語れると信じていた。しかしそれでも、彼には語りたいことがもっとあった。>

盲目のサックス奏者、ローランド・カークに親愛感を持っている。
エリック・ドルフィーは音楽的に必要なパートナーだ。
エリックが、誰ひとり知った顔のない人間に囲まれてベルリンで死んだと聞き、彼に対するレクイエム「ソー・ロング・エリック」を書く。
生まれてきた自分の息子に、エリック・ドルフィー・ミンガスという名前をつける。


---その二十年はただ単に、彼の死の長い一瞬だったのかもしれない---  
チェト・ベイカー


チェト・ベイカーは誰のためにも吹かない。
自分自身のためにさえも。
ただそれを吹いているだけ。

黒一色のなかにポツリと落とされた白い水滴。
光り輝く。
「ホワイト・マザー・ファッカー!!」

女たちに取り囲まれ、カメラマンがどこへでもついてくる。
お定まりの売人がつきまとう。
この二十年で、歯はすっかりなくなり、目が敗北に打ちのめされ、<青白いビバップの詩人からしわくちゃのインディアンの酋長(チーフ)へ>と驚くべき速さで変化する。
<ジャズとドラッグ中毒の共生関係の、一目でわかる見本>

それでいいのか?
<生きていないものの領域に入り込んだ>んだよ。
と、チェトは笑う。


---楽器が宙に浮かびたいと望むのなら---  レスター・ヤング

---彼は楽器ケースを携えるように、淋しさを身の回りに携えていた---  
ベン・ウェブスター


---おれ以外のいったい誰が、このようにブルーズを吹けるだろう?---  
アート・ペパー


それでいいのか?
だれもが、いちどは口にする。
それでいいのさ。
やがてだれもが納得する。

ジャズは。
<それでも、美しい>


<あとがき>は、著者ジェフ・ダイヤーの託宣だ。

批評家が大きらいである。

ジャズは、例えそれがスタンダードの演奏であっても、そこで演奏されるものの中には演奏者の<批評>があり、あとに演奏するミュージシャンに対する<質問>が含まれている。
ミュージシャンが演奏で日々行っている<批評>と<質問>は、批評家の仕事のほとんどにあたる。
演奏者が批評家の仕事の大部分を演奏で片付けてしまうわけだから、批評家がジャズに対して行える貢献が少なくなるのはやむをえない。
<歴史的にみれば、ジャズについての評論は驚くほど--水準が低い>

ジャズミュージシャンの「損傷率」がきわめて高いことに驚かされショックを受けながらも、そこにジャズという音楽の根幹がかかわっていると、やや擁護的に指摘する。
黒人奴隷のブルーズに始まり、ビバップの誕生を経て今日にいたるジャズの歴史を概観しつつ、今のジャズにも目を向ける。

ジャズがどこへ行き何をするのかについてはあまり触れられていないが、

<ジャズというのは、その伝統が革新と即興に根ざしているが故に、大胆に因習打破を行っているときが最も伝統的になる>という、なんとも奇妙な関係の中で、<固有のヴォイス>を持たない音楽は、そこで聴くことをやめてしまう傾向にあるが、そのヴォイズが何を語ろうとしているかにもっと注意をはらう必要があるのではないか、とだけ述べている。

ジャズは。
いつも、現在形・・・。

キース・ジャレットは「これはジャズに関する本ではない。ジャズを書いた本だ」と評した。
こんな本はない、と思わせてくれる本。



---  ---の斜体部分は、本文章タイトル。
<>は本文の引用。


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